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  • 執筆者の写真家頭 恵

アメリカの中絶裁判に思う人権の発生時期について

「旧倫理規定では、人権が発生するのが受胎後22週目からだった、新しい倫理規定では、これを17歳まで後ろ倒しにしたのよ」貴志祐介『新世界より』(講談社, 2008)


「韓国では、3人目以降の子供を出産した場合、男児である確率が女児の2倍であった。」

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キムジヨン』(筑摩書房, 2018)


※引用の元ネタ書籍を紛失してしまい、引用は正確ではないかもしれませんが、ご容赦ください!

今年6月、アメリカの連邦最高裁判所では「妊娠中絶は憲法上の権利ではない」という判決が出ました。


正直、これはすごいショックな判決でした。「中絶」という行為は私の世代(1979年生まれ)にとっては当然の行為であり、権利であるという認識でした。堕胎を認めないのは中世的価値観の持ち主だということ、しかし、それは私の思い込みであり、どうやら全く違う価値観があるということです。

この判決に明記されているわけではないですが、妊娠中絶が許されない理由としては、

「胎児もまた人である」という価値観から生まれているのでは?との思いに至り、

人権の発生時期について調べてみました。


人権とは、人として生まれてきた以上どんな人も等しく持つ権利であり、天から与えられたものであるという考え方です。


しかし人権があくまで「人」に与えられたものであれば、人間はいつから「人」になるのか、という問題があります。


「なーにを言ってるんだ、生まれた時からにきまってんじゃないか」と思われますよね。しかし実は、生まれたというのはいつを指すのか?ということ自体、論争になっているのです。

 

司法試験受験生が刑法を勉強する際に学ぶのが、

「殺人罪の客体(被害者)として、胎児から人になるか?」ということです。


これにはいわゆる「全部露出説」と「一部露出説」があります。要するに、胎児が母親から分娩される際、全部露出説は身体の全部が出てから人になり、一部露出説はほんのわずかでも母親の体外に出れば人になるというものです。日本では、一部露出説が判例であると言われ、社会通念上もこうだと思われます(…多分)。


上記の論争からもわかることですが、人間が受精卵から胎児、それから人になる瞬間というのは、あくまで法律上定められているだけであり、これを前後に動かすことができます。「人になる前であれば人ではない」以上、人権もまた存在せず、母親の意思によって生存の継続が左右されます。


そして冒頭で引用した小説『新世界より』では、もともとは受胎後22週、すなわち胎児であっても人権が発生していることが示唆され、社会秩序のために17歳になるまで人権が発生しないものと変更されています。


この小説の社会では17歳未満の子供は、社会秩序を乱すと判断されると、恣意的に処分される可能性があります。それが許されるのは、17歳未満の子供は人権がない=人ではないからであり、殺人罪等の客体にならないのです。


あくまで理論上ですが、日本でも法律でこのようにすることも可能です。全部露出説は一部露出説と比較して、人権の発生時期を後ろにずらしているのですから、これをもっとずらせば良いだけなのです。人がいつから「人になるか」というのは、法的な概念に過ぎないということです。

あまりにも極端な表現になりますが、臨月の母の胎内にいる胎児と0歳児で、前者が人ではなく後者が人である差はあるのでしょうか。生まれてきても、固形物を食べられず、自力で歩けず、言葉を発さない乳児を「人」とするなら、胎児も「人」としても良いだろうに、そうしないのはなぜなのでしょうか?


胎児の殺害、すなわち堕胎を認めるなら、0歳児を殺害する権利があって良いのではないかと言われたら、どう反論するのでしょうか。


「0歳児は人だから殺害できないのは当たり前だ!」


と言われても、それではどうして胎児は殺してもよいのでしょうか?堕胎を認めることで、産み分けや遺伝子操作に繋がってきます。

(※本ブログでの「産み分け」は、科学的な産み分け法とは異なります。)


上記引用の書籍『82年生まれ、キムジヨン』では、

「韓国においては、男子を欲しがる傾向があり、第三子が女児であると分かった場合には産まないという選択をしている人が多い」とのことです。(韓国社会の実際のところは不明です)。


そのような産み分けを「神が許しているのか」と言われると、答えがそう簡単に出る問題ではないでしょう。それを考えると、アメリカの憲法が第一に守ろうとしているのは、母親の意志ではなく胎児の命の方なのではないでしょうか。


というのが、アメリカの連邦最高裁判所「堕胎禁止が合憲であるという判決」に現れている気がするのです。

アメリカではキリスト教思想の影響が強く「聖母マリアの処女懐胎」にみられるように、子供は両性の合意ではなく神が与えたものとの思想があるため、堕胎について厳しく罰する文化があるようです。


また『旧約聖書』の「出エジプト記」においては、胎児殺しが殺人と同じ罰を課されていることから、胎児が人してみなされているという指摘もあります。


とここまで書いてきましたが、正直私も、この自分で書いた文章に強烈な違和感があります。堕胎は母親の当然の権利であり、最初から望まれない子や適切な環境下で育てられない子は不幸になるだけである、という教育を受けてきましたし自然にそう思うようになっているからです。


しかしそれは私の常識であり、そうではない社会があるということを、この判決で知りました。胎児や人という言葉自体の意味が、法律で左右されることがあることを改めて考えさせられました。




▼引用元書籍情報


・貴志祐介『新世界より』(講談社, 2008)

・チョ・ナムジュ『82年生まれ、キムジヨン』(筑摩書房, 2018)  https://www.chikumashobo.co.jp/special/kimjiyoung/

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